遊戯三昧考


「遊戯三昧」について考える

古代中国南宋の臨済禅の高僧「無門慧開(むもんえかい)」の著した書物「無門関」に登場する言葉です。「物事にふけって、夢中になること。何ものにも捉われず、自由であること」または「悟りの境地として、心の自在な様」というように解釈されます。「遊び」とは労役の対義語ではなく、すべて心の持ち方次第ということでしょうか。

濃 密 と 希 薄

私たちの現代ではITを利用しWebからあらゆる情報入手が瞬時に可能です。しかし、便利な反面、情報の判定力が乏しければフェイク(偽物)に惑わされ、最悪の状況を招く危険も孕んでいます。このデジタルの世界に対し、アートとは人間が生み出す創造活動であり、基本アナログの世界といってよいでしょう。ただし概念の枠を越えることがアートの宿命ですので、その中にデジタルアートも含まれることになりますが、それらの印象が薄っぺらく見えてしまうのも事実です。

例えば、音楽を聴くときCDと生演奏ではその音の厚みが違うことや、写真や映画のCG画面にも同様に違和感を持たれるかと思います。その理由はデジタルの表現は少し拡大すればドットの集まりであるのに対して、生の世界は分子レベルまでいかなければ最少単位にならない、つまり生=アナログとデジタルの間にはまだ大きな情報量の差が有るわけで、言い換えれば 濃密 と 希薄 とも言えます。

現在、私たちは新型コロナ禍で制約的な生活を求められ、他者との距離を置き、密を避ける事を励行しています。テレワークなど一見効率的にも思えますが相手の表情や息遣い、またモニターに捉えきれない多くの情報がカットされ「気疲れする」との証言もあります。これは、言わば希薄な状態でデジタル的とも言えるでしょう。
それに対しアナログの代表である芸術とは作者の経験と感性、そして哲学から生み出された賜物です。皆さんも素晴らしい作品の持つ際立った存在感や重厚感、そしてその強烈なメッセージに心打たれた経験がお有りだと思います。つまり、作家の過ごしてきた濃密な時間とその膨大な情報量が作品に転換されていて、我々もそれを感じ取ることができるのです。
遊戯三昧とは、遊びを極め濃密な時間を積み重ねること、作家たちも目指すところはこの境地なのかもしれません。そして、その哲学思想と歴史が濃密な空気となって漂う「曹源寺」とアートとの間に極めて密な親和性が感じられるのもその証左ではないでしょうか。

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