考察 「無心」
第七回 曹源寺庭園美術展 趣旨文
私たちは日々、思考や判断、あるいは欲望や不安に導かれながら生きています。何かを得ようとし、何かを避けようとするその絶え間ない働きは、自己という輪郭を形づくる一方で、世界との隔たりを生み出しているとも言えるでしょう。しかし禅は、そのような分別の働きを一度静めたときに現れる、より根源的な在り方を指し示してきました。それが「無心」という言葉に表現されています。
無心とは、単に心を空白にすることではありません。むしろ、あらゆる作為や執着を離れたときに、世界と自己が隔てなく響き合う状態を指します。『無門関』第三十七則において示される「無心是道(むしんこれどう)」は、まさにこの境地を端的に表した言葉です。趙州(じょうしゅう)の問いに対し、弟子が日常の行為へと立ち返るその瞬間、特別な悟りではなく、ただ“あるがまま”の行為こそが道であることが示されています。
また『臨済録』には「無心にして自ずから然り」とあり、人為を離れた自然の働きこそが真実であると説かれています。さらに『碧巌録』に見える「無心是仏」という言葉は、心を滅するのではなく、あらゆる束縛を超えて自由に働く心そのものが仏であることを示唆しています。ここにおいて無心は、空虚ではなく、むしろ世界と深く結びついた充実の相を帯びているようです。
本展は、この「無心」の境地を、美術と空間を通じて体感していただく試みです。作品は作家の意図によって生まれながらも、同時にその意図を超え、自然の光や風、時間の移ろいとともに絶えず変化してまいります。曹源寺の庭園という場は、そうした生成と消滅の過程を静かに受け止め、観る方々の心にもまた無心の気配を呼び起こすことでしょう。
ここでは、作品と自然、作者と鑑賞者という区別は次第にゆらぎ、やがて一つの響きの中へと溶け込んでまいります。見るという行為さえもまた、見られることと分かちがたく結びつき、主客の境界は静かに解かれていきます。そのとき立ち現れるのは、意味や評価を超えた、ただ在ることの確かさではないでしょうか。
無心とは、何も持たぬことではありません。すべてを抱えながら、なお軽やかであることと考えます。
本展が、そのような在り方にふと触れる契機となり、ご来場の皆さまお一人おひとりの内に静かな波紋が広がっていくことを、心より願っております。
監修担当 近重博義

